最近気がついたんだけど、駄洒落ってのは、自分が何かを言語的に生産的にアウトプットしようと脳内で言語を探しているときにバグって探し当ててしまうものなんだなあと。だから、最近、言語的に生産的にアウトプットしようとしていないので、ぜんぜん出てきません。生産的って言うのは、つまり、人と会うとか刺激とか、そういう場面で、たぶん無意識として人を喜ばせたいなという力学が働くんじゃないかと思うんです。ほんと最近だらだらしたインプットとさらにだらだらしたアウトプットしかできていないのだなあと思ったりします。


いや、それは本当か?鬱で一番どうしようもなくて自殺したいが口癖だったときが一番いい駄洒落が出ていたような気もするが?それは生きるための防御装置が働いたのだろうか?絶望のなかでなんとか自虐的に哂うことでいき続けようと言う体の自己防衛だったのか?


絶望に対して希望で対抗しようとは思わなくて。絶望に対しては侘び寂びで対抗するのが美学だと思う。わたしは強く太く生きるよりも美しく細く生きたかったし、今はどうなのかわからない。